いつもそこから

  コメンテーターが女の子にチョコをもらってうれしくない男はいないって笑った。そんなことないよなって声で安心した。わたしは偽善的だったので(たぶんこの表現は間違っている)安心をして、そんなふうに言わなくてもいいんじゃない、って思えた。

 

  不誠実なものはけがれていた。世界ではそういうふうになっていた。外界との関わりを遠ざけて生きてきた35歳成人男性のはつこいは世界に嘲笑われる。いつもそうだった。朝が変わるのを待つ時間天井を見てもなにもないけれど、助詞ばかりを書き直したリプのひとつで交わったことだけが部屋の中に灯火みたいにひかって、そういうのは誠実なんてよばれなくって、執着って言うんだよみうちゃん、知ってた?

 

文章にしてきたことのほとんどは詭弁だった。それでいいと思っていたので。

 

  一番きらいな子の親をわたしも知っていた。最近電話帳を整理していたらあの子のお母さんが出てきた。昔来たメールも思い出せる。生まれてくれてよかった気はしてる。きれいごとだけを口にしていたいもうずっと、たとえば勝手に作った人格だって。

 

  世間が口揃える誠実が、真実だとはつゆほど思っていなかった。でもわたしのとなえる誠実だって余程安っぽいことばかりだと思う。むしろ迷惑だったりして、となえることで考えているふりが、人間であるように繰り返しているだけだったりするのかもしれない。

 

  人を見てるとなんでそんなにうまくいきられるんだよって、ブラウザを越えても一番近い声があってふるえると動けなくなって生の手触りで声を聞いたときに、守るものなくなす術なく、削られたら喋れなくなる。見透かされている気がするから。

 

  どんなに言葉を並べても勝てない気がしてた。(勝つ必要などないんだけど)かなわないなって繰り返して思って、でもその感触が一番ひらめいて、実感のある痛みだった。声を聞いたとき文を読んだときずっとその痛みが続いた。頭の中で慢性的に生活のとなりに、ふとしたときに気がつくみたいに。

 

  1%に満たない不純物は切り捨てて、考えられるように少しはなった。はじまりなんて関係なくて、築いたものを見られるようになった。少しは。簡単に言えばSCANDAL BABYの歌詞みたいなもので。

 

  わたしなんかよりもずっと、遠くにいて、痛みだけが、痛みだけしか見れなくても、そこで息をしているのはとても綺麗だった、いつでも。全部ひるがえして自分の言葉を信じられなくなりそうなくらいには。一番近いところにいた。

 

  結局返信が来て喜んだり読んでほしいと思ったり、読まないでほしいと願ったりとか、思うことすべてが取り繕っているみたいになったとしても、それでも感情全部正当化したくなってしまうくらいに、どこにいても。あとたとえば、あなたがどんな人であったとしても。